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デザイナーの原石(でありたい)美大生によるぼやき又はちょっとした日々の観察

舞台『オールライト』をみて、「多様性」についての考えが変わった

こんにちは。ピーさんです。

 

今日は「多様性」について考察していきます。

 

目次 

 

 

LGBTや人種、障がいなどいろいろな「違い」を認めあおうと活発な運動が始まって久しいですね。

 

今から10年前、私が小学生の頃の状況とは大きく変わってきているなあ実感するところがあります。

 

しかし最近でもLGBTに関する話題で「生産性がない」などといった発言が炎上したりと、活発な議論があります。

 

 

「偏見のない世界」は存在し得るのか。

 

本当に「偏見のない世界」が実現されたらそれは素敵ですが、残念ながらそれはこれから先も綺麗事なのかもしれません。

 

中学生くらいの頃、私はふと(お風呂の中で)偏見のない人間になりたいと思いました。

全ての人に平等に接したい、と。

 

しかし「偏見のない」状態というのは「偏見がある」状態との相対的なものであって、「私は偏見がない人間だ」というのは「偏見がある人に対して”あの人は偏見がある”という偏見を持っている」のと同じなのではないかと考えました。

 

「あの人偏見あるなあ〜。それに対して私は偏見がない人間だ。」

と思っている本人が1番の偏見の持ち主だというパラドックス

 

すんごい難しい言い回しで自分でも今頭がハテナですし、このニュアンスを伝えきれてる自信はほとほとないのですが・・・

 

ざっくりいうと、真に偏見のない世界なんてないんだな、と悟ってしまったのです。中学生にして。

 

でも、偏見のない世界は綺麗事かもしれないけれど、偏見を少なくすることはできると思います。それには、全ての人が根本的な意識改革をしなければならないと思っています。

 

今日は私が大きく影響を受けた舞台を紹介しながら、「多様性」について考えます。

 

青年劇場による舞台作品『オールライト』

 

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kodomo-butai.jp

 

私は小学校1年の時から舞台作品をよく観ているのですが、大学受験の浪人生のとき、この作品に出会いました。

 

生きる方法は一つじゃない、人生は勝ち負けじゃない!!

 

将来とか、未来とか、大人はよく口にするけど、それって何を期待して、どうなって欲しいってこと?

夢を追いたいユキと束縛から逃れたいエリカ。

二人の女子高校生は、大人たちの世界に何を見つけるのだろうか?

 

 

<ものがたり>

古き良き昭和の香りのする一軒家。
突然の父親の出張で一人暮らしとなるはずだったユキ。
同級生のエリカが押し掛け、その上、謎のおばあちゃんと共同生活をするハメに。
おばあちゃんの作るご飯はめっちゃおいしいんだけど、
ワケありの人たちを次々に拾ってくるからちょっと困る。
いったいあの人たちは、何モノ?

若手注目作家、瀬戸山美咲氏との初タッグ。「修学旅行」「島」などの藤井ごう氏とともに今を生きるすべての人に贈るAll Right!

 

青年劇場「オールライト」より引用

 

あらすじだけで面白そうな感じが伝わってくると思います!

 

ユキの家に謎のおばあちゃんが 「ワケあり」の人たちをたくさん連れ込んできちゃって、不思議すぎる共同生活が始まるんです。

 

ブラック企業の居酒屋で働く正社員・男

・公務員試験を落ち続け居場所がなくなり、怪しいネットで稼いでる男

・夫の暴力から逃げている妊娠中の元キャバ嬢

・「俺の曲で世界を変える!」とギター片手に日本を回る35歳独身男

・ユキの家の前に倒れていた、だがやけに世話してくれる謎のおばあちゃん

 

17歳JKの家にですよ!いや、今あなたの家にこういった人たちが一斉に転がり込んできたらどうしますか??

 

仏様でない限り、会ってすぐに「やあいらっしゃい。ずっとここにいていいよ」なんてできないと思います。

 

少なくともJKユキは初めはなかなか受け入れられません。

 

多様性を認める、とか、偏見をなくす、って言うのは簡単ですし素敵ですけど実際に自分の実生活に置き換えてみるとわかるように、そう簡単にできることではありません。

 

若者が生きる居場所

 

 この作品のおもしろいところは、【いろんな立場の人が】【いろんな視点・観点から】【様々な社会的テーマについて】考えることができるというところです。

 

登場人物のユキとエリカのような思春期の中学生や高校生の目線。

 

就活の波にのまれる大学生。ブラック企業で汗だく働く社会人。結婚出産を考えなければいけない女性たち。引退したおじいちゃん、おばあちゃん。

 

あなたはどういう目線ですか?

 

この作品の核となるテーマは「居場所」です。

 

あなたには安心して自分のことを受け止めてもらえる人がいる他者の存在=「居場所」がありますか。

 

学校は、子供達が初めて家族から社会(世界)へと移行するための制度です。

 

しかし勝ち負けの競争主義のもと敗者となり、家庭や学校が居場所とならない子どもたちや若者がこの社会に増えています。

 

SNSなどにしか居場所がなくなっていませんか。生身の人間同士で、安心してお互いを認め合える居場所があなたにはありますか?

 

「世の中にはこういう人もいる。」

 

私は広い意味で「多様性を認める」=「居場所を認める」ことだと思っています。

 

世の中、ほんっとーーーに色々な人がいますよね!

外見的な特徴から、趣味嗜好、思想まで。

 

自分には一生理解できない考えをする人ってたくさんいます。

 

でも、私は『オールライト』を観てから考え方が変わりました。

 

どんな人に出会っても、まず

「世の中にはそういう人もいるんだ」

と心の中で思うのです。

 

これ、結構パワーワードです。

 

一生理解できない人がいたっていいんです。そして一生関わりたくない人がいたって当然です。でも、「そういう人もいるんだな。」と、とりあえず認めてあげること。これが大切なんです。

 

そうすると、苦手なタイプの人にも「どうしてそんな格好をするのか」とか「どうしてそうなってしまうのか」「どういう経緯でその考えになったのか」とかフラットに考えることができるんです。

 

「相手を好きになる」ことと、「相手を認めること」は違うのだなと思いました。

 

「見ないふりする」ことと、「見る」ことにも、それはそれは大きな溝があります。

 

その上で、自分はその人と関わるのか、関わらないのか判断すればいいと思います。

思想の自由ですから。

 

重たい障がいを抱えた人を見てただ「かわいそう」と思うだけでなく、「この人はこういった状況で頑張っている。」「私は恵まれた環境にいる。」と考えが広がるようになりました。

 

「世の中にはそういう人もいるんだ」

これはあくまでも自分の心の中で思う言葉であって、意識の問題です。

 

自分の心の中で、相手に居場所をつくってあげる感覚。

 

その言葉を考えるようになったのはちょっとした変化にみえますが、何かもっと大きな変化が自分の中で起こっていなければ決して出てこないフレーズだと思いませんか。

 

認めない世界と認める世界とでは、天地ほどの差があるように感じました。

 

ここまで読んでくださったみなさまも是非、とりあえず明日の電車で目の前にいる人に「こういう人もいるんだなあ」と棒読みでいいので思ってみて下さい。

 

または、苦手だなぁと思ってるあの人へ。

 

そしてちょっとでも新しい意識が芽生えていたら、それを丁寧に観察していただきたいです。

 

この記事に対してどんなことを思ってくださっても構わないですが、私は多様性についてこう考えました。

 

世の中にはこんな考え方をする大学生がいると思っていただければ幸いです。

 

その上で議論がもっと活発になればいいなと切に願います。